春菊を生でバリバリと食べる

「ねぇ、あんたって何が好き?」
「好きなものぉ? うーんとね、好きなもの好きなもの。…春菊。」
「あはは、なにそれ? なんで? 春菊ってあの葉っぱでしょ?」
「そう葉っぱ。青くてキレイじゃない?」
「ふーん、そうかなぁ。でもさ、キレイだからって美味しいとは限らないじゃん。」
「キレイなものならいいんだよ。たまたま春菊だっただけ。」
「よくわかんないなぁ。うん…よくわからない。でも、そうかもしれない。」



夢を見た。
ひどく昔の事のような、ついこの間のことのような夢。とりとめのない会話。何で思い出したのかもわからないし、何を思い出したのかもわからない、そんな会話。
あの人はもうボクの近くにいない。どこか遠くへ引っ越していってしまった。仲のよい友達。そんな関係以上に、大事な人。一緒にいた時間なんて関係なく、離れるのはあっという間で、感傷に浸る余裕なんてなかったけど、それでも、今でも時々思い出す。あの人は優しくて、楽しくて、安心できる人。小さかったボクを、いっぱい可愛がってくれた、ボクの大好きな人。もう会うこともできないし、会う方法もわからないけど、もう一度会いたい。そう思う。あの時どうして春菊なんて答えたのかボクにはわからないけど、そんな会話もきっと大事なもの。大切な、思い出。いつもならちょっとさみしい気分になって、だけど少したったら忘れてしまうような夢。
でも今日は少し違って、なんだか変な感じが、そう、なにか胸騒ぎがする。あの人の顔が、頭から離れない。あの人の声が耳から離れない。
きっと、何かに引っ張られるようにボクの心は、あの人の所へ飛んでいこうとしてる。



なんだかもやもやした気分を抱えている日も、いつものように夜は来る。単にボクが悩んだところで、時間は止まってはくれない。
ボクは早めの夕食を済ませると、ボーっとテレビを眺めていた。賑やかな歌番組はいつしか終わって、キャスターが淡々とニュースを読み上げている。国際情勢、政治の話、経済の話、偉い誰かのインタビュー。きっとどれもすごく大事な話なんだろうけれど、ボクにはちっとも何の感慨も浮かんでこない。こんな話はきっと、重要でもなんでもなく、ただただ遠くで起こっている事みたいだ。そんなニュースをボクはボーっと眺めている。いつもの時間。なんでもない時間。
そんなボクの目に不意に一枚の写真が飛び込んだ。どこかで見た顔。懐かしい顔。ブラウン管が映し出すその画像に、ボクは確かに見覚えがあった。


あの人の写真だった。


氷ついたようにボクは固まる。遠くのぼんやりとした大事な事を扱っていたはずのニュースが、いつのまにかボクに語りかけているような気がする。
ほんの短いニュースだった。いつも通りのニュースだった。キャスターはただ淡々と喋り、ほんの10秒もしたら次のニュースにかわっていた。でも、ニュースは淡々と、しかし確かにこう伝えた。


「あの人が死んだ」と。「どこかの誰かに殺された」と。


それは些細な事件。新聞の一面どころか、目を皿のようにして探さなければみつからないような事件。遠くで起こっている重要そうな何かに隠れて、きっと多くの人は気にも留めないような事件。
でも確かに、あの人が殺された。強盗殺人事件。ボクの知らないどこかで、ボクの知らない誰かに、背中からナイフで刺されたあの人は、あっけなく、まるで元から何もなかったかのようにその生涯を閉じた。
あの人のほうへ飛んで行っていたボクの心は、行き場を失って、落ちた。
軽い喪失感と眩暈。思い出の中のあの人が笑いかける。想いがよみがえる。
その日世間の誰も気にも留めないような、読んでいるキャスターすら気にも留めないような、ほんの10秒のニュースで、ボクは確実に何かを失って、崩れるように、眠った。



目が覚めた。
朝だ。窓から差し込む光が眩しい。ボクはどうやらそのまま眠ってしまったようで、相変わらずテレビが何かを喋っている。変な格好をしていたのか、体のあちこちが痛い。
どうしてこんなところで寝てるのだろう? 重い頭は、何の答えも導き出さない。ボクはゆっくりと目を開ける。


部屋は緑だった。部屋の床、一面が葉っぱだった。これはなんだ?
これは、これは…春菊だ。


認識した。
ゾッと寒気がした。
刹那。
衝動。
噛り付く。


バリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリ…


何も考えられない。ただ噛り付く。何の味もしない。春菊の葉は硬い食感だけ残して、飲み込まれる。飲み下す。乾燥しきった葉。真っ白な頭で、真っ白な心で、無心に噛り付く。
あの人の顔が浮かんで、消えた。



あの時何を思ったのか、何であんなことをしたのか、ボクにはわからない。ただ、そうあるようにして、感情に身を任せるまでもなく、そうなったのだ。それしか、なかったのだ。
あの日部屋一面に生えた春菊は、ボクがどんなに噛り付いても、翌朝にはまた部屋一面に生えていた。ボクは、もう、衝動に襲われることもなくなって、横目で葉っぱを眺めながら、日常を過ごした。それはいつも通りの日常だったし、部屋に春菊が生えていことを除けば、何も変わったことはなかった。
それが当たり前になってきた頃、春菊は枯れて、落ちて、消えた。
そしていつしか、ボクは、春菊が生えてきたことも、思い出さなくなった。
時間は流れる。何もなかったように。何も起こらなかったように。ボクにあるのは今であって、過去は忘れ去られるものでしかない。
でも、春菊を食べるたびに、ボクは思い出す。忘れない。あの人と交わした会話。なんでもない会話。その記憶。
あの人はもういない。あの人の事を夢に見ることはもうない。ボクは今しなければいけないことがあって、それはあの人とは何の関係も無い。
それでも、ボクの心の奥底にあるものを呼び起こすように、ボクをあの人とつないでいる。


春菊は、少し青い味がした。