「かわいいは正義」という絶望

こことかこことかこことかここのエントリーを見て、自分がずっと感じていることを文章にしたいと思ったので、あまり外向けに書くことではないと思いつつ書いてしまいます。
去年の夏に乙女化する男子の話とか傷つける性としての男性とかの話を読んで、サークルの冊子で書いたものの焼き直しです。多分その辺の影響も受けています。
一般論でなく私論なので、不愉快な方は「僕たち」の部分を「私」に置き換えて読んで下さい。

以上予防線張り終わり。我ながらチキンです。
長いので続きを読むにしておきます。





「女の子になりたい僕ら」という願望は今の空気をかなりの強度で支配していると思う。
マリみて(未読)で少女の花園を垣間見て、おとぼく(未プレイ)で少女の花園に侵入した僕たちは、かしましにおいてついに女の子になって少女の花園の仲間になってしまった。この世界は少女の三角関係から成り立っており、真っ当な男キャラである明日太にはもう介入することが許されない。男の子は作品において、一応の予防線あるいはギャグ担当としての居場所しかなくなってしまったのである。
こういう傾向はあずまんが大王苺ましまろからも感じられた。あずまんが大王が描いたのは、女子高生達の何気ない日常であって、そこに男の子の存在は必要ではなかった。そして苺ましまろにおいて、少女達の世界には木村先生という男の子の気持ちを代弁する位置にいたようなタイプのキャラですら、その居場所を追われたのである。
少女のみで閉じられた世界を描いた苺ましまろは、それでも僕たちの熱狂的な支持を得た。この物語には僕たちの代理人はもういない。そこはあくまで少女達によって閉じられた世界であり、そこに働く倫理は「かわいいは正義」なのである。可愛くない男など、この世界には居場所が無いのだ。この倫理を掲げ、女の子達の世界に陶酔する僕らは何を考えているのだろう。主人公としての僕たちの役割はもうない。僕たちは外側から観察者として萌えることしかできない。しかも、「男性であり可愛くなれない自分」という自己を根源的に否定する絶対倫理を掲げてまでである。
でも、僕たちは本当に男性である自分達を否定しながら、それでも萌え続けているのだろうか。むしろ、僕たちの本当の望みは彼女らの一人として、あの世界に侵入することではないのだろうか。そして僕たちはかしましにおいて、本当に侵入を果たした。はずむは少年から少女になることによって、少女たちの世界という楽園を手に入れたのである。そしてこの作品もまた、僕たちに熱狂的な支持を得るのである。
僕たちの望みは少女になることである。そして少女だけに許される、少女達の世界に住むことである。しかしこれは真実の少女達の世界ではない。「可愛い」という絶対倫理の中に築かれた、僕たちの妄想としてのユートピアである。要するに、未も蓋も無い話をすればこれは、単なる逃避の1パターンである。僕たちは僕たちの描いた少女達のユートピアに、少女化した自分を投影する。この捩れた妄想による逃避が実際に今僕たちの望んでいることなのだ。物語の中に現実逃避をすることは、特に珍しい話でもなんでもない。誰にだってあることだし、誰だってやることである。だから問題は僕たちが何故「少女たちの楽園」を志向し、自らの男性性を否定してまで少女への憧憬を抱くかである。
多分、生きにくいのだとも思う。でも、それは所詮甘えでしかないかもしれない。絶対的な父性の崩れ去った現代だとか、フェミニズム的にどうだとか、言説を重ねることは可能。確かに僕らにとっての父親像は父ヒロシ(まる子でもしんちゃんでもいい)であり、女性は強いものだ。しかし、それだけとも限るまい。もっと大きく、複雑な要因が僕たちを生きにくくしている。あるいは弱くしている。その理由をここで追求することはしない。しかし、男性であるということは、今、それだけ苦しいことなのだ。ある種、それは絶望的なのかもしれない。
ゆびさきミルクティーは男性性への抵抗感と抗えない現実と、少女への憧憬を描き続けている。その行き先が少女化した自分へのナルシズムであっても、僕は驚かない。放浪息子も男性性への抵抗と少女への憧憬を描く。こんな感覚が、確かに僕たちを取り巻いている。
僕たちは逃げ出してはいけない。強くならないといけない。逃避は確かに自由だ。いくらだってすれば良い。それでも僕たちが生きるべき世界ここでしかない。その切り替えを、線引きを忘れてはいけない。好きなだけ逃避した後に、どうやっても男性である自分に向き合うことが、今の僕たちの絶望に向き合うことが、僕たちには必要なのではないだろうか。