「オタク」と「オタク論」について思うこと

オタク論、つまりオタクについての話を見ていて私が感じたこと、思ったこと、考えたことを一回文章としてまとめてみたいとかねがね思っていたのをまとめてみました。以下は私なりのオタク論であり、私なりの「オタク論」論です。


追記
朝起きて読み返したらあまりに恥ずかしくなって消したいんだけど消すに消せないので隠す。何でこんなもん書いたんだろう・・・・・・。



オタクとはスタイルである。要するに生き方である。
だから、アニメが趣味な人もマンガが好きな人もゲームが好きな人もオタクではない。そういう人は、あくまで趣味として、そういったオタク系のメディアを楽しんでいるだけだ。オタクの場合、オタクという生き方の一つの要素としてアニメやマンガやゲームが好きなのであって、趣味として楽しんでいるわけではない。


ではオタクという生き方とはなにか。それは、社会的な疎外者や異端者が選び取らざるを得なかった生き方の一形態である。現代社会の成立基盤でもある社会的な通念というものを受け入れられなかった人間、或いは適応できなかった人間が選んだ道である。例えば、社交性、恋愛、運動ができる、容姿が良い、仕事ができるなど、現在の社会が描く人間の価値基準を満たせない場合。自分はこの社会では生きていけないと思った時、そうして社会的通念から外れたときに、アニメやマンガやゲームがアイデンティティを支えるための新しい骨組みになった人たちのことである。不適合者の文化であるが故に、オタク文化は「NEET」や「いじめ」「非モテ」といった不適合者のもつパターンに非常に親和性が高い。社会に受け入れられなかった者の文化だから、社会への憧れと怨嗟がないまぜになった様なものがでてきたりする。
そしてオタク文化の中で生まれたものの多くは、現実の社会性を自覚的に脱落させる。自分達の周りを彩る現実の問題は排斥され、現実には発生しないキャラクターや人間関係、世界観が形作られる。設定を煮詰めたファンタジーやSFなどは、全く新しい社会的価値体系を作ろうとしているように見える。或いは、世界や自分の存在意義といった、自分自身の内省が大きなテーマとなる。その行き着いたものがセカイ系である。また、オタク系メディアは高校くらいを舞台としたものが多く、モラトリアム的である。不適合な社会からの逃走の色合いが強い。またその舞台で語られる物語は非常にユートピア性が高い。終わらない変わらない幸せな日常が描かれる。それか逆に、全くのディストピアが描かれることもある。不条理で社会的な価値を壊しに行った場合などである。ライトノベルで一時期はやった学園異能などは、ディストピアによってユートピアを侵略する構図を取ったものである。しかしこれは結局どちらも完全な虚構であり、現実的な側面が存在する余地がない。砂の城を自分で作って壊しているようなものである。
結局、オタク的なメディアは既存の社会的な枠組みから脱して、自分が実際の社会で得られなかったもの、例えば有能感であったり、恋人であったり、とにかくそういうもの、を補填する形に作られてういる。そしうて、内にこもったり、作り上げた世界に浸ったり壊したりしながら、抽象的に生き方や愛や勇気を謳う。現実でどうすれば金持ちになれるかだとかの実際的な教訓や、生臭い人間模様は排斥されがちである。


こんなふうに、社会不適合者の自己補填のためのメディアがオタク系メディアである。では、社会において不適合な、社会的な価値体系の中で弱者に属する、もっと強い言い方をすれば差別対象の人間を、そしてその人間が進まざるを得なかったオタクという生き方を肯定する方法はないのだろうか。それは、今のままの社会の中では無い。社会に適合できないから弱者になり、オタクという生き方を選ばざるを得なかった。そうやって自我を支える道しか残されていなかった。そして、オタクであることは、そもそもの成り立ちからして、社会的に正しくないことであり、社会的な非難を浴びることである。不適格なのだからしょうがない。


だから。必要なのは価値の転倒である。社会的価値体系の中で下位に追いやられたのだから、社会的価値体系が組み変われば順位は変わるかもしれない。オタク的な価値観、それが社会性を持ちえるのか、そもそもどういうものか私にはわからないのだが、が社会の規範になれば、オタク文化は社会的不適合者の文化ではなくなる。オタクであることは社会的に上位に位置する者のたしなみとなるはずだ。二次元至上主義を掲げても良いし、DQNを弾圧しても良いし、もっと他の何かでも良い。必要なのはたった何百年かで築かれたこの国の社会通念を転覆させることである。これはレジスタンスである。聖戦である。社会的弱者による革命である。しかし、真っ向から向かって行ってもしかたがない。敵は強大だ。正面からの攻撃では容易な返り討ちを招き、より社会的に圧迫される結果が待っているだけだ。小国がアメリカにミサイルを撃ち込んでも仕方がないのだ。だから、必要なのは周到な戦略であり、団結であり、徹底的な抗戦である。社会通念に時には迎合し、時には反発しながら、社会通念そのものを変えていくこと。同志達よ、さぁ立ち上がれ。今こそ決起の時は来たれり。


とまぁ、なんて美しい理論だろう。完璧だ。社会的通念を打破するための聖戦とかテロとか学生運動とかの香りがしなくも無いが気にしまい。オタク文化の性質を考えると、社会的価値体系に成り代わることは難しいような気がするが気にしまい。この価値観の転覆によって新たなる弱者が発生する、そんなわかりきったことも気にしまい。新しい価値観の元で誰が弱者になって苦しもうと仕方がないことだ。安定した社会は皆平等に生きることなど許さないのだから。仮想敵を作って、そのクラスに属する人間を弱者に追いやったところで、ただ競争が発生して勝ち負けが付いただけだ。


或いは。社会的価値に縛られるから弱者だという訳で、本人が社会的価値観から抜け出してしまえば、弱者という概念すら無意味になるのではないか、と考えることもできる。不適合ゆえにオタクになったのだが、それは単に社会的通念という鎖から抜け出すためのプロセスに過ぎないと。働いて金稼いで恋人作って家庭もって偉くなってという人生の決められたコースからの脱出。くだらない社会通念からの解脱。全ての雑念を振り切って、妄想の世界に旅立ってしまえれば無駄にエネルギーのかかりそうな革命など目指さなくても、個人個人の心構えだけで問題は解決するのではないか。ついでに何か悟って人生の意味とかまでわかってしまえば万々歳だ。


そう、思考のプロセスは間違ってない。他に、社会的弱者が救われるための手段がない。実際こういう風潮も見える。で、まぁ、これはこれで構わないんだが。こういう考えも存在して良いと思うのだが。こういう考えを批判する、これで困っている人たちというのは、オタク系メディアを趣味とする人や、軽度のオタクの人々なのではないのだろうか。
一般社会がこういった考えを批判するのはまぁ当然で、キモイでも恐いでも何でも言えば良いと思う。しかし、一般社会がこれによって被害を被るかといえば、そんなことはないと思う。今の社会通念を守るために、カウンターカルチャーをどうにかしようと思えば、法律でも差別でもなんでもやり方はあるのだ。それに、オタク文化をしゃぶり尽くして、飽きたらポイっと捨ててしまえる程度にメジャーカルチャーの懐は深い。もしかしたらその過程で、何か社会通念や文化に変質が起こるかもしれないが、それはゆっくりとしたもので、決して今の社会がひっくり返るようなものではなく、いつの時代でも起こりうるゆっくりとした変質の一過程であろう。そんなに困ったことは起こらないと思うのだ。

むしろ大変な立場に立たされるのは、社会に生きながら趣味としてオタク系メディアをたしなむ人や、オタクとなりながらも、社会適応への努力を続けてなんとか社会に適合して生きているような人々だ。社会通念の転覆や、社会からの解脱を目指されては困るのだ。オタク系メディアは社会不適合者の密かな楽しみでなくては困るのだ。反社会的な立ち振る舞いをされて、社会通念からの開き直りともとれる大幅な離反をして、より一般社会からの攻撃を受けるようになっては困るのだ。せっかく、社会に迎合して隠れオタクとして一生懸命生きてきてまともな生活を送ってるのに、或いはオタク的趣味を持ちながらでも社会の中で生きれることを証明してきたのに、お前らそんなことしてくれるなというものである。自分達のやってきた努力をなんだと思っているのかというものである。弱者である自分を必死に支えて弱者として生きてきたのに、開き直って革命や解脱を目指して自分だけ楽になって、その上こちらの立場まで危うくするとは何事かと。


オタクの話、つまりオタク論を眺めていて思うのは、オタク論に一般社会の付け入る隙などないってことである。一般社会からしてみれば、オタクたちがオタクをどう考えようそんなことどうだって良いのだ。実際に起こったことをもとに判断を下すだけである。
だからむしろ、オタク論というのは結局は社会に迎合するオタクと、社会に反するオタクの争いでしかないのではないだろうか。そしてこの問題にどちらが正しいのかという答えがないというのが、オタク論を不毛にしている大きな要因であり、この問題が決着しないとお互いに生き方という部分でアイデンティティが危ういというのが、この議論を両者に必死に語らせる要因なのではないだろうか。そういった中で今日もオタク論は議論され続けるのだ。この文章もオタク論であるように。