涼宮ハルヒを考察

小説の涼宮ハルヒシリーズをとアニメの涼宮ハルヒの憂鬱を踏まえての、ハルヒに関するとりとめない考え事。
サークル名簿のコラム用に書いたものなのですが、せっかく流行のハルヒ関連だしと思ってブログにも載せちゃいます。〆切りギリギリで思いつくままにでっち上げたもののために、粗を探せばいくらでも出てきそうですが、まぁ、その辺りはあまり気にしない方向で。ブログであんまり気を使ってたら疲れちゃいますし。


涼宮ハルヒシリーズはSF要素をちりばめた作品であると同時に、学園青春ものです。SFの部分を捨象して、学園ものとしてのハルヒを考えた場合、この物語は非常にオーソドックスな学園ものの形をとります。涼宮ハルヒを団長とするSOS団の活動は、基本的には街中をみんなで散策したり、自主制作映画を文化祭に向けて作ったり、部室に溜まってダラダラしたり、他の部活とゲーム対決をしたり、みんなで旅行に出かけたりと、至って真っ当な文化系部活動の様相を呈しています。そういう意味では、こいつら、別に特別なことは何もしていません。この面からすると非常に現実的で日常的なSOS団の姿が浮かび上がってきます。ただ、ひとつ面白いのは、この文化系部活動というよりも、もはや単なる仲良し集団に近いSOS団というものを作るために、自律的進化の可能性を探る宇宙人だの、涼宮ハルヒを神と崇める超能力者だの、禁則事項だらけの未来人だのに、「涼宮ハルヒを観測する」という理由が与えられていることです。仲良し集団を作るためにこれだけの大風呂敷を広げ、さらには世界の危機まで持ち出さなければならないというのは、これまたずいぶん大仰な話です。その上一般人であり、主人公であるところのキョンのSOS団への入団理由も、涼宮ハルヒに無理やり入れられたからという非常に受身な理由となっています。
要するに、こいつらは誰一人として自らの意思を持ってSOS団に入団した訳ではないのです。しかしながら、こうして受動的要因で始まったSOS団もやがて、団員達はそれを守ろうと動き出すようになります。ここに来て、バラバラの事情を抱えて集まっただけのSOS団はようやく、普通の仲良しグループとしての性質を持ち始めます。そういう意味では、集団してのSOS団は、結成から結束の時間へと真っ当な成長をしているのではないかとも考えられます。


ただ、ハルヒは単なる学園ものではないのも事実です。SF的な非日常の要素はSOS団に非常に大きな影響を持ちます。そもそも、SOS団の日常的活動も長門のインチキマジックや涼宮ハルヒの無意識パワーに支えられているのだから非日常レベルは高いです。

日常/非日常の枠組みで考えたときに、ハルヒの物語は興味深い様相を見せます。この物語において最も非日常的なものは憂鬱でハルヒの作り出した閉鎖空間です。そして最も日常的なものは、消失で長門の作り出したSF的要素の無い世界です。そう考えると、SOS団的日常はこの中間に位置します。主人公達が成長する青春小説的に考えた場合、反社会的なモラトリアム的性格を持った非日常のユートピアは、時間的要請や社会的要請によって卒業されるものです。いつまでも砂糖菓子作りの時間を過ごしてはいられず、それが子供の時間から大人の時間への成長となります。

この考え方でいくと、涼宮ハルヒから見た場合のこの物語は成長物語的な青春小説となりえます。特にアニメ版はその色彩が強く、そのような物語として脚本が書かれていた可能性は高いのではないかと考えられます。非日常ユートピアを志向して、最終的に閉鎖空間という最大限のユートピアまで作り出した彼女は、しかしキョンの説得によって日常に帰還します。その後のライブアライブなどの話を見ても分かるように、彼女の心は急速に当たり前の日常へと向かっています。この意味ではユートピアからの脱却という極めて青春小説的な物語が涼宮ハルヒには用意されている訳です。しかし、この脱却した先の日常はまだ、SF的要素の支配するSOS団的日常であることに留意すべきです。ハルヒが本当に全能であるならば、憂鬱ラストで全ての非日常を捨て去ることもできたはずです。それをしなかったというのが、まだ、非日常への未練を彼女が持ち続けているという証左になるのではないでしょうか。

逆にキョン側から見た場合、この物語は日常から非日常へと移行する現実逃避的な色の強い反成長の物語となります。彼にとっての当たり前の日常はハルヒによって変質させられて、SOS団的日常に取って代わられます。ここで彼の生活空間は非日常のユートピア化します。彼が体験していくめくるめく非日常はそのことを示しています。そして、憂鬱のラストで閉鎖空間という非日常の集大成のようなものに関しては反発した彼ですが、消失においては彼の行動は非日常を守る側へと傾きます。長門が作ったSF的要素のない当たり前の、現実的な日常を彼は否定し、SOS団的ユートピアな非日常を明確な形で選択するのです。これに伴い彼の受動的な立場は、SOS団を守るという能動的な立場に変化し、それと同時期に他メンバーの行動もSOS団を守るという方向に傾きます。これは、消失後に外部からの明確な敵というものが物語に導入されたことからも分かります。ただ、この敵はやはり現実味の無い、非日常の存在であり、本来成長物語の中でユートピアの存続を危うくさせる、社会的な要素や時間的な要素がSOS団的ユートピアの存続を危うくさせているわけではないことは留意すべきでしょう。


とにかく、涼宮ハルヒが非日常から日常へと回帰する一方で、キョンは日常を捨てて非日常を守るという方向に歩を進めました。そして、彼女と彼の緩衝点として、非日常と日常の入り混じったSOS団的日常が選択されているのです。完全な非日常にも振れず、単なる日常にもならない、半分非日常な絶妙なバランスです。となると、この先で興味深いのは、このまま非日常の中で終わらないユートピアを守る方向に物語が進むのか、現実的な要請によってSOS団という仲良しグループは発展的な解散をし、日常へと回帰するのかというところになるでしょうか。仲良しグループの成長物語は、結成から結束、そして解散へと向かうものですから、ハルヒが成長物語として描かれる場合、今現在結束を強める段階へときているSOS団がこの先発展的な解散を遂げることは間違いないと思われます。しかし、この物語が終わらないユートピアを志向した場合、SOS団は永続する非日常となるでしょう。または、今度はキョンだけではなくSOS団全員を巻き込んでの、涼宮ハルヒによる世界の改竄という更なるユートピア化を果たすかもしれません。そして、現在両方向にベクトルが向いているこの物語は、まだどちらの方向に進むのか予測がつかないのです。
大きなポイントは、この先時間の経過とともに彼らが高校を卒業することができるかということでしょうか。ハルヒのおかしな力によって時間がゆがめられることは分かっています。この力を使って、終わらない高校生活を可能とすることができるはずです。この力をキョンが意図的に働かさせたり、ハルヒが無意識に行使したりすれば、それだけで、この小説は終わらないユートピアとなります。逆にハルヒの力もキョンの努力も働かず、普通に高校を卒業できた場合、SOS団的非日常は学生時代の良い夢として処理され、彼らは現実を歩みだすのかもしれません。時間的要請からのユートピアの卒業です。このはるか昔からあるユートピアとその卒業の問題に、現代の物語としてハルヒがどのような解答を出すのか楽しみです。