ハーモニー / 伊藤計劃

ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)

ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)

ユートピアの臨界点。あらすじに書かれているその言葉がまさに。読み終えて、とにかく凄かったという言葉しか出てこないような作品でした。本当に、凄かった。
〈大災禍〉と呼ばれる野蛮が支配した未曽有の混乱期を抜けて、人類が創り上げた生命主義の社会。政府ではなく生府によって構成され、一人一人を社会に対するリソースとしてみる社会。医療分子技術により、ほぼすべての病や苦痛は人の体から切り出されて、体内のWatch Meが常に体の状態を監視し続ける社会。常に自己の情報を、社会、他人に対して開示し続けることを義務付けられた社会。健康であることを潔癖なまでに身体的にも精神的にも強制され、社会の一員としての倫理と優しさを常に求められる社会。混乱期の反動から創られた、見せかけのユートピア。この物語は、そんな時代を背景として語られます。
少女時代、Watch Meを体に入れる前。私、霧慧トァンの出会った御冷ミァハという少女。

「わたしたちはおとなにならない、って一緒に宣言するの。

 
 
 
 

 ぜんぶわたし自身のものなんだって、世界に向けて静かにどなりつけてやるのよ」

ミァハの扇動で、優しさで締め上げられるような社会の空気に対して明確に反意を示して、おとなになることを拒んだ3人の少女たち。そんな回想で始まる冒頭から、言葉の選び方が、描いている世界が、読んだ時の感覚に凄いものがありました。社会に対して反旗を返して、己自身を殺すという、この時代に許されたほぼ唯一の方法を試みた少女たち。ミァハは成功して、残りの2人、トァンを含む、は死ななかった。
そして物語は、おとなになった、螺旋監察官として戦場に赴き、そこでアルコールやタバコを摂取することで、憎き社会と織り合いをつけたトァンによって語られていきます。ユートピアに思えた世界、そこで起きてしまった集団自殺事件。メディアを通じて、世界の人々に対して付きつけられた脅迫。誰かを殺さなければ、あなたが死ぬと。その事件の先に、Watch Meを開発した父ヌァザ、そして死んだはずのミァハの姿を見て、非常に個人的な操作を進めていくトァン。
医療分子テクノロジーの極点で、全てを公開することで安心を手にしていた社会で、沸き上がる混乱の気配。その中で、トァンが向きあうのは、事件の謎、そして人間とは何なのか問い。自然であること、動物であることを潔癖なまでに追いやって、ついには苦痛と病すら自らの外に押し出した人。社会的存在としての人。そうやって、あらゆるものを切りだしていった社会で、人が「わたし」であること、意識を持つことの意味。それを自然の中の適応、動物であることの1事例と取るならば、そこに特別な意味は生まるのか。
わたしとは、社会とは、自然とは、重ねられる考察。この作品の場合、それは常人離れしたセンスによってもたらされているものではなく、誰にでも理解できる一つ一つの考察を、何重にも何重にも精緻に積み重ねて入ったように感じます。優しさで首を締めるユートピアの風景、対比される紛争地帯の「今の社会」の風景、そこで重ねらる人間への考察。全ては、突飛な空想でもなく、物語のための設定でもなく、感情に任せて舵を切ることもなく、ひたすらに真摯に積み重ねられていくもの。そしてその問いに対しての切実さ。こんなにも分かりやすいのに、一種の狂気すら感じるそれは、まさしく圧倒的で、本当に1人の人間が1年と少しの期間で書けるものなのかと驚くばかりでした。
突き詰めていった先に見えたのは、おとなとこどもの話、社会の話を踏み越えて、全てがふっと消え去ったような極点。少女たちの物語の、人間とはなにかを問う物語の行き着いた、ユートピアの臨界点。そこにある何もかもに対して、主観的にどうという訳ではなく、ただ考察の積み重ねの先に行き着いた何か。
読み終わって、本当に凄いとしか言えない物語でした。
今この時代に、この本を読めたこと。幸せに思います。