アンドロイドは電気羊の夢をみるか? / フィリップ・K・ディック

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (1977年) (ハヤカワ文庫―SF)

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (1977年) (ハヤカワ文庫―SF)

父に伊藤計劃を渡したら薦められて、思い立ったように読んでみた過去の名作。私は翻訳文が苦手&古い小説は苦手という二重苦で最初は読みづらく感じていたのですが、途中からは非常に面白かったです。さすがの名作。
戦争によって放射能で汚染された地球。生命は希少で価値のあるものとなり、残された少ない人々は自分が放射線によってスペシャルという被差別者になることを恐れながら、動物を飼って暮らしているような世界。そしてまた、生命の現象と反比例するようにアンドロイドが溢れ、動物や人間に見た目そっくりなそれらがあふれていディストピアな世界での物語。
この世界の描写、衰退する生命とそれだからこそ特別扱いをしようとする姿勢。追い込まれているはずの人類がすがった、人の気分を変えるダイヤル、受容と共感による融合を説くマーサー教。この作品の前にももちろん連綿と続いているものはあるとは思いますが、そういった描写を読むだけでもこの作品がこの後へと与えた影響の大きさのようなものは強く感じます。ただ、今の時代を生きている身としては、影響下にあるものを沢山見てきたがゆえに、新鮮な気分で楽しめないというのもあるのですが。
そんな世界で描かれるのは、脱走アンドロイドを狩るバウンティ・ハンターの男が突きつけられる、人間らしさとアンドロイドらしさの違い。見た目ではわからない、テストをしなければ分からないようなアンドロイドに触れて、その中でアンドロイドに共感してしまった。だから、それを狩るべき物として扱おうとして泥沼にはまっていく主人公と、冷静にそこにつけ込むアンドロイド。それは、自分自身さえも疑うほどに。
この作品の世界は、一度あまりにも近づきすぎたアンドロイドと人間という違いが問題になって、そのあと「共感」とか「感情移入」という点において、改めてアンドロイドと人間の間に一線を引いた後のように感じます。そしてそうやって成り立たせたはずの場所で、それでもその線が崩れていくような感覚を描いているのかなと。「感情移入」に縋るしか無かった人間、マーサー教、だからこそ向けられるアンドロイドへの感情がその一線をもう一度有耶無耶にしてしまう自家中毒感。逆にそこをバッサリと割りきってしまった人間は、それもまたアンドロイドのようであって答えにはならなくて。最終的にその前提すらも崩されてしまってもそこにとどまり続けるしかないという答えの見えない結末は、決して後味の良くない感じです。
最後まで読んで、それでも生きていることにしがみつき続けるしかない人間があって、ではそれで人間であることの意味とは? と更に問われているような感覚のある一冊でした。そしてそれは、こうやって昔も今も、更に昔もこの先の未来も、その時代の世相と想像力に依りながら、ずっと問われ続けていくもののだろうなあと。