ブランコ乗りのサン=テグジュペリ / 紅玉いづき

カジノ特区で演じられる少女たちのサーカス。その舞台に上がることを目指して「サン=テグジュペリ」を襲名した少女は、けれど練習中に怪我を負い、そして双子の妹にその舞台に身代わりとして上がることを求める、という話。
すべてを捧げて求める舞台。えいえんがないからこそえいえんを謳い、不完全で不自由であるからこそ一層輝く。それだけのために捧げられたものは、時間であり、お金であり、激しい競争であり、浴びせられる嫉妬であり、厳しい練習であり、理不尽な虐めであり、でも、そういう泥臭いものを乗り越えるとか、そういう話ではなくて、それは過程でしかなくて、この舞台に立つために必要なものはもっと別のもので。
そこに立つためなら、それであるためなら、どんな方法を用いることも辞さず、自らの身体を作り変えていくことだって自然として、少女サーカスの舞台の上でそういう存在になる。それはきっと、能力でも権力でもまして気合や根性でもない、純粋な覚悟の話であって、ならばこれは、壮絶な話というよりは在るべきものたちが在るべき在り方であるという、それだけの話なのかなと。ただ、表現をする人間にそういうものを求めるという意味で、激しい物語であったなあとも。
そういう意味で開幕と第一幕で続く双子の妹の話は、少女サーカスの少女の話ではなくて、だからまるで少女漫画の主人公みたいなシンデレラ・ストーリーが甘めに展開して少し面食らったのですが、それも双子の姉である涙海が描かれる閉幕ですごく納得するものがありました。持てるものが姉で、持たざるものが妹。けれどそんな妹に訪れた突然の舞台と思っていたものが、持てるものと持たざるものは逆転して、だから妹の愛涙はそんなに簡単にブランコ乗りになれて、涙海はそんな彼女を身代わりに仕立てあげたのだと分かって。
けれど、それでも、あくまでも少女サーカスの舞台に相応しいのは涙海であり、それはやっぱり純粋にブランコに乗るのが上手いとかそういうことではなくて、追いかけていけてしまう、大人に向かって先へ行けてしまう愛涙は少女サーカスの一員ではなかったのだろうと思うのでした。この舞台はそういう場所であって、そういう少女たちが立つものであって、だからこその魅力があるものなのだと。
そういう意味で、個人的には歌姫アンデルセンの話が好き。奔放に振舞って、支配者のようでもあって、毒婦のようでもあった彼女が、少女サーカスというものの裏にあるものに触れた時。その時に選んだ愛涙とは真逆の選択が、えいえんがない世界にえいえんを歌い続け、誰よりも長く舞台に立ち続けてきた彼女のあり方そのものを表しているようで、この命を引き換えにした、先のないものが、少女サーカスなんだなあと、だからこそ惹かれるものがあるのだろうなあと感じました。何を知っても、ずっと続くものはないとも分かっていても、それでもこういう選択をする、そんなまともじゃないところが。
この少女たちのいる世界は私には読んでも分からないところがとても多くて、それでも読み終えて、ああそうなんだなとすっと落ちるような、そんな一冊でした。面白かったです。