やがて君になる 1 / 仲谷鳰

評判の百合マンガということで手にとり読み始め、そこまで言うほどかなあと思いつつ読み進めていたのですが、気がついた時にはK.O.されて天井を眺めていた、みたいな。やばい。これは、やばい、作品です。
強烈に感情に訴えかけてくるようなタイプのマンガではなくて、読んでいる限りはとても淡々としているように感じます。誰かを特別には思う気持ちにはまだ手が届かない後輩と、そんな彼女を好きになった先輩。その二人と周りの人たちの姿を、言葉を、一つずつ積み重ねていくような感じ。二人の気持ちを描く内面描写は抑えめで、物語的にもわかりやすく大きな障害が、というタイプの話でもなく。だから多分、斜め読みのように読んでいると、何も気づかずにさらっと読めてしまう。
ただ、そうやって綺麗に取り繕われた表面が、このマンガ、本当に表面でしかないのだと思います。侑を強行に生徒会長選の推薦人とした橙子が沙弥香に語った言葉。憧れの先輩にフラれた侑の友達の言葉。しっかりと取り繕われていることが分かる形で描かれるそれだけではなくて、橙子と侑の言葉も行動も、おそらくはそうやって生まれたものがここにはある。つまりそれは、整理されて、何か元にあったものがこぼれた後のものであって。
そう思うと、要領よく物事を進めていく侑の淡白さや、他人にとって特別であるようにみせている橙子のスタンスの向こう側に、直接描かれない何かがあるような気がするのです。そしてこのマンガは、それが何も加工されない素のままで表面に出る瞬間がある。橙子が最初に侑にかけた「君のこと好きになりそう」もそうなのですが、それ以上に侑の橙子に対する「ずるい」が鮮烈で。そしてあのシーンを他とは違う言葉で、表情で、明確に描くのならば、そこまで含めて全て作者にコントロールされた上でのものということで、そりゃあ二重の意味でゾクッとしますよねっていう。
そう考えた時に、この二人の関係、ただ表に出てきている橙子が侑に迫っているというものだけでなくて、どれだけの感情が動いているというのか。5話で橙子にとっての特別であることがどういうことか、それが侑に対してはどういう意味を持つのかが語られたのはまだほんの氷山の一角に過ぎなくて、まだ描かれることなくとどめられたものが、この二人の間に起こりうることが、ちょっとどれくらいの深さまであるのか想像もつかなくてクラクラしてしまうのでした。そしてきっとそれが「やがて君になる」というタイトルに繋がっていくのだろうということにも。
そんな中でも、今は侑の無自覚さが特に怖いです。橙子は侑に明確に惹かれて、自分の弱さまで彼女の前で見せるけれど、誰も特別に思わないという彼女は橙子に見せる弱さがない。だからここには有能な先輩と新入生という見かけ上の関係は実は全く別のパワーバランスがあって、その強い立場を無自覚気味に振るってるんですよねこの子。特に表情もかえずに、ただ優しさだけを注ぎこむようにして。そんな関係がこの先いったいどこへ向かうというのか。
だって、あの「ずるい」というのは橙子個人だけを対象にした相当に強い感情であって、それすら特別なものでもないと言うのだったら、侑という子はそれに気づいていないとしても、ある程度わかっていてやっているにしても、ちょっと恐ろしいものがあると思うのです。この先そこにどんな変化が生じて、どんなふうに転ぶとしても。
1巻で描かれたのは、とても静かな、二人の関係のほんの少しの一歩目なのだと思います。ただ、その向う側にある危うさだとか、そういうものがばっと押し寄せてくるような一瞬の感覚が読んでいる中で何度もあって、これは本当にやばい作品なんじゃないかと思うのでした。先が少し怖い、けれどとても気になるような。