2011年の棚橋弘至と中邑真輔 / 柳澤健

 

2011年の棚橋弘至と中邑真輔

2011年の棚橋弘至と中邑真輔

 

 プロレスが好きです。

と言っても、ずっとファンだった訳ではありません。子供の頃、19時頃にTVKがノアの放送をしていて、ちょうど絶対王者時代の小橋をよく見ていましたが、いつか放送がなくなると多分にもれずK-1やPRIDEを見るようになり、プロレスは全然見なくなりました。なので、改めて見始めたのはちょうどブシロードが大量の宣伝を投下した2012年頃で、まんまとプロモーションに乗せられた形だったように思います。それから、2014年1.4東京ドームの中邑vs飯伏ですっかりハマって、ネット配信を熱心に見るファンになったという感じ。

なので、新日本の暗黒時代や、そこを支え続けた棚橋の話は噂に聞くという感じで、今圧倒的な人気を誇る棚橋がブーイングされ続けていたと聞いてもピンとこなかったのですね。ということで手にとったこの本だったのですが、これはなんというか、壮絶な道のりであったのだなと。

日本の総合格闘技全盛期に、アントニオ猪木のプロレスは最強の格闘技というイデオロギーにより迷走を続ける中で、プロレスを誰よりも考えて、誰よりもプロモーションに奔走し、ブーイングを浴びながらも常に先頭に立って新日本プロレスを変えてきたのが棚橋であり、そのライバルとして別の考えを持ち別の道を歩んできたのが中邑であり、二人の言葉と彼らを語る周囲の人達の言葉はさすがの説得力があるなと思います。

そして、インタビューでの二人の言葉を読んでいるとああ、やっぱり私はプロレスが好きなんだなと。

「戦うことによって環状を表現し、メッセージを伝える。プロレスラーという職業は、一見、シンプルな構造に見えて、実は自分の生き様が反映される複雑な創作活動です。難解だけれど、究極の表現、芸術なんじゃないかと僕は思っています」――中邑真輔

 

「振り返れば、僕たちはプロレスを通して生き方を競ってきたような気がします。『俺はこう生きる。お前はどう生きるんだ?』って」――棚橋弘至

リングの上で戦うことによって行われる表現。だから最終的には観ている人にどんな感情を抱かせたかという、その一点に集約されるもの。それがプロレスの場合はすごく複雑な手続きで提示されているのだと思います。

試合の瞬間瞬間に生み出される動き、技、表情、声。どちらが攻める、どこを攻めるという試合自体のストーリー。それぞれの選手の持つキャラクターと、試合までにリングの内外で作られてきたストーリー。キャラクターを超えて、選手自身がここまで歩んできたキャリアと人生の全て。選手同士の間にある生の感情、関係性。団体への想い、プロレスへの想い、イデオロギー。最終的な決着、勝敗、それを受けての行動、言葉。

演じられるもの、決められたもの、それをすり抜けてくる生の感情や所作。小さいものから大きなもの、短いものから長いものまで、メタ的な構造のある多くのストーリーがリング上での戦いに絡みつき、選手と選手がぶつかるたびに、想定されたものも、想定外のものも含めて何かが生まれれていく感じ。中邑真輔が「即興の芸術」と語るその作品は、シンプルな体と体のぶつかり合いの果てに虚構と現実が複雑に絡み合った結果、選手としての生き様としか言えないものが滲むから、観ているこちらの心を動かすのだと思います。

勝敗が決まっているんでしょ? というはプロレスへの一般的な疑問としてよく言われるものですが、勝った負けたというのも、そこに至った要因も含めて、全てはパーツに過ぎないのかなと。その膨大で複雑な組み合わせと、リング上で交わった選手たちの瞬間の表現が導き出す何かこそが、観ている人の心を動かすという、最終的な結果を導くものなのだと思います。

 

私は音楽ライブが好きでよく見に行くのですが、結局、表現というものを受け取る側の立場として、その場だけの、生の何かに感情を動かされる感覚って、プロレスも音楽も一緒だなと思います。勝敗を競う格闘技や優劣を競うコンクールではないから、最終的には受け手の心をどう動かしたかに尽きる。

特に私はそこに生き様が見えた時に魅力を感じるし、二重三重に別の物語が絡み合って何かが生まれる感じが好きなのは、たぶん声優がキャラクターとして表現するライブが好きなのとも根っこは同じなんだろうなと思いました。