オタクな私の生きる道

オタクにとって「足りないのは覚悟」か? - たまごまごごはん
を読んでいて共感を覚えたので、個人的に思ってることとかを書いてみます。


長くなったので続きを読む記法で。


オタクとして必要な覚悟っていうのはある気がしていて、それは
「好きなものを『好きだ』と言い切って、心の底から楽しんじゃうこと」
に尽きるんじゃないかなぁと思います。


これが意外と難しい。
リンク先に書かれていますが、どこかでラインを引いちゃって本当は好きなことでも楽しめずにいるようなことって結構い多いんだと思います。私にもあったさ! 何をそんなに食わず嫌いをという可愛らしい時期が。

ただまぁ、それって仕方がないことで、オタクであることって多分に後ろめたいものです。
なんだか世間一般の本流から外れていて、社会常識で測ると明らかにおかしかったりもする訳で、そうなってくるとどうしても、一定の後ろめたさみたいなものは付きまとう訳で、劣等感とか被差別感とか、なんか色々マイナスの感情を抱え込んだりもします。周りの一般人とそもそも根本の部分で話が合わないで悩むとか、両親に顔向けができない気がするとか、人生このままでいいのかとか、なんか色々。
だから、変にオタク方面に親和性があると逆にオタク的なものを嫌ったりとか、ここから先は絶対入らないと線引きをして踏み込まないとか、ある種自然なことだと思うのです。そうやって近づかないことで、「真っ当」な人生を送れるなら尚更。

でも、そうやって生きるのは意外と辛い。いや、そうやって生きて幸せな人もいるのでしょうが、私は辛いと思いました。
なぜかと言えば、結局オタクって抜けられなかったんですよね。高校で脱オタしようとして、大学で脱オタしようとして、社会人で脱オタしようとして、ちゃんと抜けていく人もいれば、抜けられずに戻ってくる人もいるように、抜けだせない人には全然抜けだせない。
たぶんオタクって趣味というよりは、もっと感性的な、あるいは在り方とか生き方の範疇に含まれるものなのかなぁと思います。先天的か幼少期か何だかわかりませんが、気がついたらマンガ・アニメ・ゲームが好きで、ファッション誌をみんなが読み始めるころになぜか手元にはアニメ雑誌があったり、グラビアアイドルよりも二次元のヒロインの方が魅力的に感じたり。色々要因はあるのでしょうけど、なんかもうそういう風にできているとしか言い様のないこの感じ。
そういう人は、変に線引きしてると面白くないんじゃないかなぁと思うのです。

好きなのに好きだと認められない、そんなもやもやとした日々を送るくらいならば、いっそのこと後ろめたさも劣等感も真正面から抱え込んで、好きなものを思いっきり楽しんじゃえという。それが一般的には変だということはわかっていても、好きなものは好きなんだと言い切っちゃう覚悟、みたいな。鬱屈しているくらいなら、そんな自分を認めちゃった方が楽しいと思うのです。

もちろん、後ろめたいことには変わりないです。こそこそします。やっぱり一般人の話についていけなかったり、両親に罪悪感を感じたり、テレビのオタク特集に苦笑したり、なんかそんなこともいっぱいでしょうが、そんな日々を送りながらも好きなものだけは楽しめるときに目一杯楽しむというシンプルな結論。
変に開き直ったりしても仕方がありません。余計生きづらくなるだけです。別に社会に変わって欲しいわけでもありません。そんな世界は要りません。否定されるのは仕方ありません。好奇の目で見られるのも甘んじて受けいれます。弾圧されるのは……できればそっとしておいてほしいかな。
そんな中で、私は私の楽しいと思うことを、力の限りまでやって、誰よりも幸せに毎日を生きてやるのです。「あいつらキモいけど、でも滅茶苦茶楽しそうだよな」と言われるような、そんな感じが理想。面白そうだと思ったら何でも突っ込んで、好きだと思ったら好きって言って、楽しかったら思い切り楽しんで、そんなことが覚悟なのかなぁと思いました。

なんかよく分からなくなってきたのでこのあたりで〆。

人生、楽しんだもん勝ち!