1000年後に生き残るための青春小説講座 / 佐藤友哉

1000年後に生き残るための青春小説講座

1000年後に生き残るための青春小説講座

文章を書くということを書いた、佐藤友哉のエッセイのような評論のような小説のような青春の書。
戦後文学語る企画を蹴りながら乗るような形で連載された、1000年後まで自分の文章を届けるための方法を模索する一冊。ですが、ここに書かれている、戦後文学についての解説も、サリンジャーへの愛も、1000年後というわかりやすい指標も、それを語る作者の振る舞いも、途中で起きた3.11の大地震も、そこに書かれたそのものに何かがあるわけじゃなくて、その向こう側で見え隠れする佐藤友哉という人自体を、垣間見る言葉を残したいという思いのようなものを感じる作品でした。
30代になり、大地震で心を乱されて、青春汁が枯渇してという変化は、確かにこの本の途中から見えるのですが、それはあくまでも手段というか見え方というか、そういうものが変わっただけで、多分この人の中にあるものは、それこそ「クリスマス・テロル」をぶっぱなした時から、きっと何もブレずに変わっていないんだろうなあと思います。
どこまでが本気かわからないことが書き連ねられて、自分でも分からないといって読者に聞いてみたり、面白い文章があったり、かと思えば真面目に評論的なものを書いてでもそのスタンス自体を否定してみたり、最終的にたどり着く結論がそこなのかというようなところだったり、分かってるでしょうということが読み手からすると全然分からなかったり、なんだかそんな文章の集合がこの本で、たぶんここに書いてあることがそのまま全て作者の本心なはずはなくて、でも間違いなくこれは全て佐藤友哉なんだと思うところもある不思議な感じ。
読み進めるほどに、ここに書かれて叫んでることとは別に、ここに書かれたものの向こう側で叫んでいる姿が見えるようで、それは若くて破茶目茶なものを書いていた時と何も変わらないように思えます。そこで、不真面目で大真面目でどこまでが本気かよくわからないこの文章で、文章書きである佐藤友哉が何をしようとして、何と闘い続けているのか。
ここにあるのは文章と作者と読み手それぞれが完全に切り離された距離感で、だから文章を介してこちら側からそこには絶対に届かなくて、でも確かにそこにある(ように思える)切実さを、(たとえそれが自分の中にあるものが反射しているに過ぎなかったとしても)感じることができるから、私の好きな佐藤友哉は私の好きな佐藤友哉なんだろうなとぼんやりと思いました。
私は「フリッカー式」でこれは私のための本だと思った頃からはずっと歳をとって、どうしても1000年後まで自分の文章を残したいという気持ちはよく分からなくて、それでもユヤタンの書くものはやっぱり好きです。これも本気かわからないのですが、作中に書かれていたようにポップであることを志向してこの本が書かれたというのならば、佐藤友哉は小説界のアイドルに、それこそマイケル・ジャクソンみたいな存在になりたいのかなと、ちょっとだけ思ったりしました。