【小説感想】夏の終わりに君が死ねば完璧だったから / 斜線堂有紀

 

夏の終わりに君が死ねば完璧だったから (メディアワークス文庫)

夏の終わりに君が死ねば完璧だったから (メディアワークス文庫)

 

 最愛の人の死体には3億円の値札。彼と彼女の関係は、お金のためなのか、そうではないのか。きっと逃れようもなくどちらも正しくて、けれどそれだけじゃないと分かっているから。どんな言葉にしてもこぼれ落ちる、そこにあるはずのものを証明するための、ひと夏の物語。

衰退していく田舎町、昴台を救ったサナトリム誘致。そこに入る患者は、身体が金塊に変わるという死に至る病に侵された人たち。かつて昴台の地域振興に失敗した義父と、サナトリム反対を叫び続ける母との暮らしの中で行き詰まっていた少年、江都が出会ったのは、そんな金塊病に罹患した女子大生の弥子でした。そして身寄りのない彼女は、チェッカーで勝つことを条件に、自分の死体を江都に譲ることを提案します。そうして始まった二人の関係の中で、江都は次第に弥子に惹かれていき、そして直面するのは、彼女の死体には3億円の値がつくという純然たる事実。

人の死に値段がつけられるのか。死とお金は天秤に乗せて良いものなのか。それは多分、相続の問題であれ、保険金の問題であれ普通に起こりうることで、けれどこの作品は、それをあまりに極端な、思考実験にすら近い形で彼らに突きつけます。そして同時に、この物語はもう一つのことを突きつけているように思います。二人の関係を、物語にしてしまって良いのかと。

たぶん、天秤に乗るか乗らないかで言えば、乗るし、乗らないのだと思うのです。そこに発生する金銭的価値は、存在する以上除外することはできない。それは周りの目線だけでなく、彼と彼女の間においても、最初から最後まで在り続けるもの。けれど、そうやってお金か否かという形にした瞬間に、そこからはたくさんのものがこぼれ落ちる。

同じように、誰かが物語にした瞬間に、二人の関係からはたくさんのものがこぼれ落ちるということを、この作品は週刊誌の記事を通じて描きます。3億円を手にした貧しい少年の物語はキャッチーで、当然それを江都は受け入れられない。でも、結局人間は物語としてしか、出来事を理解なんてできないのだとも思うのです。物語にして、そこに意味が生まれて、怒ったり、泣いたり、満足したり、感動したりできる。そこからは、当人たちだって、弥子さん本人でさえ逃れ得ない。

この作品自体、難病の少女と田舎町の少年が出会い、心を通じ合わせ、彼女の死と引き換えに縛られてきた世界から一歩踏み出していく、それを分かりやすく感動的な物語にだってできたと思います。あるいは、江都少年がもっと大人であれば、そういうものだと割り切って、弥子さんと3億円のことを整理できていたかもしれません。整理できなくたって、力があれば、もっと上手くやれていたのかも。

でも少年は少年だったから、言葉でも行動でもできなかった証明をするために、その全てに抗います。閉ざされた田舎町、見えない将来、大人たち、金塊病、チェッカーの特性、壁に描かれた鯨。全てはあまりにも完璧に配置されていて、彼の導く正解はたった一つで、そして当たり前のように失敗する。でもそれは、切実だったし、誠実だった。

先に続くのは未来だけで、いつか彼は大人になる。それでも忘れないだろう彼と彼女のひと夏を、読者としてどんな物語として受け止めたって、何かがこぼれていくとは分かっています。それでも、最初から最後まで胸を抉りとっていくような、鋭く、美しい物語であったと思います。とても、良かったです。