明日、機械がヒトになる ルポ最新科学 / 海猫沢めろん

ヒトと機械の境界を探って、7人の科学者にインタビューをしたルポルタージュ。最前線での研究をしている人たちの話は、まさに今までの常識が溶けていっている現場という印象で、とても興味深く読めました。
当たり前ながら専門的な話はこれを読んだけできちんと理解できる訳はないのですが、全体的な流れをすごくざっくり言うと、ヒトっていうのは環境の中でインプット-処理-アウトプットする人の形をしたものであるということが機械をヒトに近づけようとする中で見えてきたという話なのかなと。そしてインプット-処理-アウトプットという意味では、別に機械もヒトもそれ以外の動物も大して変わる訳じゃないという。
そう考えると、SR(代替現実)はインプットに働くものの話で、3Dプリンタは機械が機械という形を作れるかという話、アンドロイドは形とコミュニケーション(インプットとアウトプット)のインタフェースの話で、AIはディープラーニングでヒトの処理に近づいたという話、ヒューマンビックデータはインプットとアウトプットの膨大なデータを分析して法則化したもので、BMIはインプットとアウトプットを繋いで化かすという話、受動意識仮説と幸福学は心とか意識とか呼ばれるもののその中での位置づけといった話だったのかなと思います。例えば機械によるヒトができることの代替・拡張や、バーチャルでインプットとアウトプットを環境から切り離すっていう話も、同じような枠組みの中で理解して良いのかなと思いました。
個人的には今まで、人間、というか自分の心(意識)はやっぱりなにか特別な位置にあるんじゃないか、みたいな考え方が強かったので、こういう、特に受動意識仮説みたいな考え方はああなるほどそうかあと思うところがありました。何が正しいのかはわかりませんが、自分の意識を環境から切り離して考えると、最終的に自分の意識以外の存在も信じられないけど殴られれば痛いし一人でいると寂しいよね、それでも自分の意識は一番特別じゃなくちゃおかしいよね、みたいなどん詰まりに行き当たると思うので、こういうふうに考えていたほうがずっと気楽で良いのではないかと思います。
あと、ヒトが処理をするときに後から副産物がごとく立ち上がってくる意識、みたいなイメージは面白いなと。反射的な動きではない、記憶と時系列の順序立てと推論みたいなものを踏まえた動きを処理するときに、なんかついでに生まれた物語が自分の意識みたいな考え方は、物語のないところにでも物語を見出すのが大好きな人間らしいし、何よりロマンがあると思います。人の数だけ物語がある! みたいな。
それは主観が主体ではないというような話だと思うのですが、だからといってそれが嘘だから無価値だと思わないし、色々な人の主観がいっぱいある世界より、色々なものが影響し合いながらわさーっと動いている世界で、なんか特殊な処理で動いている人間の上に意識という物語がおまけのように浮かんでいるという方がイメージしやすいなあと。
機械はヒトになれるのかという話では、まあ何を持ってヒトと呼ぶか次第ですが、ヒトもそれ以外の生き物も機械も同じような枠組みで動いてるけど大分中身が違うというのはしばらく続いていくのかなと何となく思ったり。というより、いつかヒトと同じようにインプットして処理してアウトプットする機械が生まれたとして、その頃にはインプットとアウトプットが機械で拡張されたヒトの方がいて、そもそも何がヒトなのか、みたいな問答が始まるだけじゃないかという気もするのでした。それはそれでSF! という感じでワクワクする未来像にも思えますが。