『キャラクターとしての声優』に魅せられて -私がライブに行く理由-

ここ3年くらいラブライブアイドルマスター関連の、キャラクターのキャストである声優によるライブというものにハマって、大きなライブがあるたびに現地やチケットが取れなければライブビューイングに足を運んできました。自分でもどうして声優なのか、キャラクターなのかというのに明確に答えがないまま、ライブに行っては尊かったのなんだのと特別なものを感じてきたのですが、その辺りのことに自分なりに少し整理がついたので、ちょっと書いておこうかなと。


そもそも、いわゆる2.5次元系のアイドルライブってかなり特殊な形態だと思うのです。キャラクターの中の人による作品の一環としてのライブと言えばシンプルなのですが、作中のキャラクターを演じるミュージカルのようなものではなくて、あくまでキャストである声優が前面に出ているライブという扱い。もしかすると、がっちりと世界観を作ってくるようなアーティストの方が、何かを演じているという意味ではきっちりやっているかもしれないくらい。
けれど、彼ら彼女らは本人がアイドルとしてステージに上がっているかといえばそんなこともなくて、あくまでもキャラクターとしてステージでパフォーマンスをしています。「キャラクターを演じる声優によるライブ」と「声優が演じるキャラクターによるライブ」は全く別のはずだけれど、ステージ上で行われているパフォーマンスとしてはどちらの側面もある。
ここでは、キャラクターを雑に扱えばそっぽを向かれる、けれど中の人要素を出してはいけないわけでもない。だから、そのラインを外さないバランス感覚はかなり厳密に求められているのだけれど、結果的にそこで成り立っているものはかなりファジーです。
この辺はキャストである声優自体の人気とキャラクターの持つ人気が両立させられるという意味もあるのかなとは思いますが、それ以上に2次元のキャラクターを声の演技ではなく、ライブという場で表現することは次元の違いから困難だということもあるのかと思います。この表現の別の手法としては、声と歌・踊りを切り離すアイカツのようなやり方や、テニミュのような2.5次元系ミュージカルのやり方もあるとは思いますが、キャラクターとの結び付きという意味でも、声優が演ることに重きをおいているのかなと。
で、このファジーさは必然的に視点にブレを生みます。キャストを見ているのか、キャラクターを見ているのか、両方を見ているのか。それがライブ中ずっと揺れ続けるようなイメージ。そしてこの緩さが許容する、視点の置き方の幅、解釈の多様性が、この種のライブの肝になっている部分ではないかと思うのです。


彼ら彼女らが背負う背景の物語、コンテンツの中でのストーリーも、今目の前で繰り広げられるパフォーマンスや演出も、その向こう側に見えるキャラクターの姿も、何をどう切り取ってどうやって見るかは観客次第。キャストでありキャラクターであるということは必然的に立脚できる点が多いので、そこに何を「見る」のかも、観客の見方次第で全然変わってくる。
ただ、いろいろな見方ができる、というのはそうやって見る前提が求められているものでもあります。μ'sはこの年末にかけてミュージックステーション紅白歌合戦と一躍時の人になっていますが、多分初めて見たらアニメ由来のアイドルユニットという点でしか見ないと思うのです。そうした時には、歌も踊りもその道のプロから比べたら難しいものはあるし、そもそも10代半ばのキャラクターをずっと年上の声優がそのまま再現しようとしていることに「?」となるんじゃないかなと。
結局、そこに何を見られるか、どこまで余白に対して深読みできるかが面白いものであれば、ある程度の前提知識と解釈する力は問われているように思うのです。完成されたものを見たいのであれば向いていない。もちろんそういうパフォーマンスも時にはありますが、なんの前提もなく見た瞬間これはとんでもないと思わせるようなタイプのものでは無い、と個人的には考えています。
もちろん、前提としてやっぱり楽曲、演出、パフォーマンスとしっかり準備された一定以上のものになっていなければダメで、キャラクターとしてのパフォーマンスであればなんでも良いというわけではないですし、長く続けているほど積み重ねたものの大きさを感じさせるようなパフォーマンスを見せてくれることが多いとは思います。単純に歌手兼声優という人も今は増えていますし。

 
とはいえ、その性質から前提を共有できる空間でこそ、楽しみ方の幅は圧倒的に広がるのだと思います。だからやっぱり単独ライブで見た時にとても輝く。キャスト、キャラクター、コンテンツ、ファン。そこに向けた準備や練習からくるパフォーマンスはもちろん、全てをより濃く、よりマニアックにできるから、色々なものがそこで折り重なって、一つの方向を向いた世界観を作りつつ、その中で複合的な見方もできる。与えられながら楽しみを探すことができる。それはそのまま、ファン同士が後で感想を交換することの面白さにも繋がるし、SNSの時代との親和性もとても高い。
そして、ライブの中でブレながら重なってきた多数の見方が完全に一致したように感じる瞬間があります。会場にいる何千、何万の人が同じものを見ているという感覚。あの、ある種の集団幻覚のような、一体感というか、陶酔感というかは、ちょっと一度体験してみて欲しい代物です。現実が溶ける感覚。あれは、すごい。



長くなるので折りたたみますが、この後は単純に様々な見方ができる、多様性があるといっても具体的にどういう見方をしているのだということを少し具体的に書いてみたいと思います。

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