連日のように雨が続いた続いた長い梅雨が明けて、うだるような暑さが支配する7月のある日のこと。
数えれば何千冊にもなるだろう本の山があちこちにそびえる浮世離れした部屋の中、開け放った窓辺に寄りかかり、ぐったりとした表情で本を読んでいる青年がいる。
シャツを着崩してネクタイを緩め、時折「あちー……」とだるそうな声を漏らしながらも、ページをめくる手だけは一向に止まる気配はない。
青年の名はでるた。太陽が一番高くなるお昼時。申し訳程度に窓枠につけられた風鈴の効果も虚しく、むわっとした空気の立ち込めた部屋の中、黙々と読書を続けている。
そんな折、ピンポーンというチャイムの音と玄関口からのかしましい話し声が聞こえてきた。
でるたは一瞬名残惜しそうに本を見つめてから、ゆっくりと腰を上げると、本の山をかき分けかき分け玄関へと向かっていく。
少しの時間の後、部屋に戻ってきた人間は三人。
でるたを先頭にして部屋に入ってきた来客二人のうち、前にいた小柄な人物が、部屋に入るなり顔をしかめる。
「うっわ、あっつい! ねぇねぇ、どうしてクーラー使わないの?」
そして人の部屋だと言うのに遠慮する様子もなく、キョロキョロとリモコンを探し始めた。
羽織っていたパーカーを脱ぎながら、ようやく見つけたリモコンが全くきかないことに小首をかしげるその人物の名前はコモリ。でるたの友人の一人だ。
「……壊れたんだよ」
リモコンを逆さにしたり、叩いてみたりしているコモリを眺めて、吐き捨てるように言うでるたの方は苦虫を噛み潰したような表情。どうやら彼としてもこの事態は想定外のようだ。
「えー、せっかく片付けにきてあげたのに、これじゃあやる気なくなっちゃうなぁ。ねぇ、こんこん先輩?」
そう言って振り返ったコモリの後ろ、部屋の入口にぼーっと立っていたのは、トレードマークのメガネにいつも変わらない眠たげな表情を浮かべたこんこん。やはりでるたの友人の一人で、でるた以上にたくさんの本を読む、極めつけの書痴である。
そのこんこんはわざとらしく神妙な顔で
「そうですね、この暑さでは、やはりこの山は……」
と言うと、さも残念そうに首を振った。
そんなこんこんの言葉に小さく舌打ちをするでるた。
「なんだよお前ら、誰も頼んでもいないのに勝手に押しかけてきて、結局何もしないのかよ」
「あっれー、でるた先輩、実はちょっと期待してたり?」
「ち、ちげーよ。ただ、まぁ、これだからな。片付けてくれるならそれはありがたいとは思っていたけど……」
そう言ってでるたが見渡す部屋は、もともと本だらけのところに、二人の来訪者によっていよいよ足の踏み場もない惨状だ。
そんな寝る場所すら怪しいでるたの部屋の状況を知って、お節介にも本を片付け、また読みたい本があれば借りていってやろうとやってきたのが、コモリとこんこんである。
とはいえ、もともと体力のない本読みが三人。真夏の暑さに侵された部屋で、本の整理などという肉体労働に従事する訳もない。
始めは部屋の中をうろうろとしながら、どう片付けようかと考えていたようだが、気がつけば自分の座るスペースだけを確保して、三者三様の姿勢で本を読み始めているのだった。
そして、しばらくページをめくる音だけが響く。
ぺら。
ぺら。
ぺら。
「あちー……」
「あつい……」
「あっつ……」
誰からともなく声が漏れた。
この夏の日にクーラーの壊れた部屋。人口密度も高めで気温と湿度は尚も上昇中。もともと暑さに弱く、日差しの強い日中の外出などもってのほかな三人にとっては、かなり過酷な環境だ。
ぺら。
ぺら。
ぺら。
「あちー……」
「あつい……」
「……」
ぺら。
ぺら。
ぺ……ら……。
「……どこかクーラーあるところ、行かない?」
暑さに耐えかねたように提案をしたのはコモリ。
だがその提案も、でるたがあっという間に否定する。
「俺は、この部屋から、一歩も、出ない!!」
「反応はやっ!」
そしてでるたは諭すように話し始めた。
「いいか、俺たちは誇り高きひきこもりだ。こんな暑さごときで外出なんて、ひきこもり舐めんな!」
「え、何威張ってるの!? というか僕とこんこん先輩、ここまで外出してきたんだけど!?」
「それは……それだ! 俺はひきこもる! 心頭滅却すれば火もまた涼し! 寒い地方が舞台の本とか読めばいいんだよ!」
「えー……」
暑さも忘れての力説に、頭から湯気が出そうなでるたに対して、ぐったりした声で答えるコモリ。しばらく不満そうな顔をしていたが、やがて諦めたように読書に戻る。
そしてまた、しばらくの沈黙が訪れ、部屋には再び、ページをめくる音だけが響き始めた。
ぺら。
ぺら。
ぺら。
「……」
「……」
「……」
ぺら。
ぺら。
ぺら。
「……」
「……」
「積読は、なんで増えるのん……?」
「どうしたしっかりしろ!?」
うつろな目で文字を追っていたコモリが突然つぶやき始めたうわ言に、でるたが慌てて近づき、肩を揺さぶる。だが、コモリはぼーっとしたままでなおも言葉を続ける。
「ひきこもりのでるた先輩の本が……増えるということは。夜中にこう、かってに、ぶんれつを……。ぷらなりあてきな、生き方……」
「おーい、しっかりしろー。帰ってこーい」
でるたの呼びかけにも視線はどこか遠くを見つめたまま、
「でも、しつりょうはほぞんするから、重さがはんぶんに………だから先輩の部屋は、そこが、ぬけない……!!」
なんてことをいう。
そんなコモリの様子に焦ったでるたが
「どうしようこんこん先輩、コモリが壊れた!」
と呼びかけたこんこんの方はと言えば、やはりこちらもあらぬ方向を見つめたまま、
「とても興味深い考察ですね。確かに物質の質量は変わらない。ですが、こう考えてみてはどうでしょう。でるた先輩の家の空気中に含まれる豊富な物語成分が、夜の間に何らかの作用によって凝固しているとしたら……。これは、世紀の大発見かも……うふ、うふふふふ」
「……こっちもダメだ! お前らどれだけ暑さに弱いんだよ! あと物語成分ってなんだよ!」
「でも、ふえるだけとは……かぎらない。おなじ色が、そろえば、消える……! たとえば、この緑のMF文庫が4冊そろうと……」
「ふぁいやー」
コモリの言葉に合わせるように、こんこんがぼそっと呟いた。
「つぎに、水色のハヤカワ文庫が4冊そろうから……」
「あいすすとーむ」
「そして、青色のガガガ文庫で……」
「だいやきゅーと」
「それなら、青白のファミ通文庫が……」
「ぶれいんだむどー」
「さらには、ピンク色の角川文庫に……」
「じゅげむ」
「ばよえーん」
「ばよえーん」
「ばよえーん」
「ばよえーん……じゃねーよ! どんなパズルゲームだよ! 増えないし消えないよ! というかお前らマジ顔赤いけど大丈夫かよ!」
なおも「ばよえーん」と連鎖し続ける二人を置いて、でるたはどたどたと部屋を出て行く。
そして持ち帰ってきたのは扇風機と濡れタオル。それを額にのせてしばらく、ようやく二人の顔に生気が戻ってきた。
「僕、ずっと本でぷよぷよしている夢を見ていたよ……」
「奇遇ですね、私もです……」
そんな二人を呆れた目で見るでるた。
「同じ色揃えても、一列に並べても、爆弾ブロックを消しても、ウイルスにカプセルくっつけても消えねーよ」
「ぷよぷよ、テトリス、……??」
コモリが不思議そうな顔をする。
「でるた先輩、ゲームの趣味が古いですよ。ボンブリスにドクターマリオなんて、今の子どもたちは遊びません」
「なっ、なっ、1学年しか違わないじゃねーかよ! というか分かるお前もっ」
「年齢詐称はいけませんね……」
でるたの言葉を遮ると、やれやれと肩をすくめるこんこん。それを真似て、同じく大げさに肩をすくめてみせるコモリに、でるたは唇を噛みながら
「……くそ、お前ら。扇風機止めちまうからな」
と負け惜しみをするのだった。
§
「積読……それは読書の暗黒面。暗黒面の誘惑に負けた若きデルタズールーは、皇帝ビーケーワンの右腕として長く続くことになる積読帝国の独裁に……」
「頼むから黙って読書ができないのかお前は」
「えー、そんなに集中力続かないよー」
日も傾きだしてだんだんと気温も下がり、少し元気になってきたコモリの独り言に、律儀に突っ込むでるた。この部屋に来てから早四時間が経過して読書に飽き始めたコモリに対して、でるたとこんこんは一向にその読書ペースを落とす気配はない。
「この暑いのに、よくそんなに本読んでいられるねぇ」
感心したような呆れたようなコモリの言葉にも、さも当然なような顔をしてでるたが言う。
「本を読むだけならいくらでもできるからな。たぶん、一日読んでいることもできる」
「これが、年間六百冊の原動力……積読怪獣デルタ……」
「なんだ怪獣って……」
「こう、身体が本でできていて」
「ほお」
「口から文字を吐く」
「ほおほお」
「……あと…………触るとインクで手が汚れる」
「……今ネタ切れただろ、お前」
「……うん」
「ちゃんと考えてから喋りましょうね、コモリちゃん」
「こ、コモリちゃんゆーな!」
そんな風にでるたとコモリが騒いでいる間も、こんこんは黙々と本を読み続けている。その様子を見てでるたは
「まぁ、俺もこの先輩ほどじゃねーよ。年間1000冊のサウザンドマスターさまはやっぱり違うね」
とため息をついた。
その言葉に、こんこんは少しだけ視線を上げ、またすぐに読書に戻るのだった。
§
またしばらくの後。
コモリはいつの間にか眠ってしまい、でるたが用意したタオルケットを被って部屋の隅に丸まっている。そんな様子でるたはをぼーっと眺めていた。
「あー、コモリちゃんかわいいなー。服従させてこの俺の奴隷にしてやりたいなー」
「こんこん先輩、なに人の心の声捏造してやがりますか」
「だいたいあってると思いますよ」
「は、半分くらいあっていますがそれはともかく!」
でるたはゆっくりと立ち上がって伸びをする。
「もうだいぶ遅くなりましたけど、先輩たちはこの後どうするつもりですか?」
「当初の目的が果たせないのは残念ですが、そろそろお暇しましょうかね」
と、こんこんも荷物を持って立ち上がる。
「あぁ、先輩たち片付けに来たんですよね……って随分荷物が膨らんでらっしゃいますが?」
「そうだ。コモリ君を起こさなくてはいけません」
「いやだからそのバッグは」
「こんな鬼畜な先輩の家に一人残しておいたら、危ないですからね」
「何もしねーよ! ってだからそのバッグを開けてください先輩」
「でるた先輩は、人の荷物を覗き見するような人だったんですね……」
悲しそうな顔をしてみせるこんこんにでるたは一瞬ためらいを見せるが
「……って騙されませんよ先輩。借りたい本があるなら貸しますから、勝手に持っていくのはやめてください」
「ユーの本はミーの本。ミーの本もミーの本」
「中途半端に英語にしてもそれジャイアンですからね」
「ユー貸しちゃいなよ」
「だから貸すと言ってますでしょうに!」
そういってこんこんに飛びかかるでるた。
それをかわそうとこんこんはさっと後ろに引いたが、本の山に足を取られて転んでしまう。ちょうどそこにのしかかるような体勢で、でるたはこんこんのバッグから本を取り出す。
「あー、これですか。これ、面白いですよ。2巻のですね、最後の方でこのヒロインが」
「ネタバレ禁止です。だから私が先輩にバレないように持っていこうとせざるを得なくなるのです」
「まだ自己正当化するのかこの口は」
そういってでるたはこんこんのほっぺたを掴むと両側に引っ張った。
「ひててててて」
そんな時、部屋の隅からごそごそと身を起こすような物音がした。
「でるた先輩が、嫌がるこんこん先輩を、押し倒してる……」
この眠そうに眼をこすりながら、しかし妙にわくわくした表情のコモリが翌日図書委員の間で広めた噂が、またひと騒動を巻き起こすことになるのだが、それはまた別のお話。
§
そんなこんなでコモリとこんこんはなんとなく帰り時を失って、まだでるたの部屋で本を読み続けている。外はすっかり暗くなり、少し冷たい風が吹きこんで読書にも快適な気温になったことで、三人の読書ペースはまた一段と早くなっている。
そんな折、ピンポーンとチャイムが鳴った。
「……ひきこもりでコミュ貧のでるた先輩に、まさかの来客が!!」
「コミュ貧は余計だ! って、あぁ、そうか」
一人で納得したような顔で部屋を出て行くでるた。その様子を不思議に思ったコモリとこんこんが、気付かれないように抜き足で、でるたの後からこっそりとついていく。
「いつもありがとうございます。こちらにハンコお願いしますね!」
玄関口から響くのは明るい少女の声。どうやら、でるた当てに宅配便が届いているらしい。
「はい……確かに頂きました。ところで、今日はどんな本を買ったんですか?」
そして聞こえてくるのは二人の楽しげな話し声。でるたが普段から通販を利用しているせいだろう、配達員とは顔見知りのようだった。
しばらく話し続けていた二人だが、やがて「ありがとうございましたー」の声と共にドアを閉める音が響いた。そして嬉しそうな顔をしてダンボール箱を抱えたでるたが部屋へと戻ってくる。
「やー、今日も届いた届いた。どれから読むかな」
「あらヤダこんこんさん、ちょっとさっきの聞きました?」
「ええ、コモリさん。いくら旦那さんが留守がちだからって、あんな宅配の男の人と」
「だってあの方、ほら、ちょっととうがたっているじゃない? それなのにあんな若い子に……」
「ほんと、どうなのかしらねぇ。旦那さんも知らないんでしょ?」
「ええ、ええ、あんな堂々としてたら、そのうちバレますわよ」
「……お前らは何をしているんだ」
本の山に隠れるようにしながら部屋に入ってきたでるたをみつめ、こそこそと奥様口調で会話を続けていたコモリとこんこんに、でるたが訝しげな目を向ける。
「家政婦は見た、積読団地妻の浮気現場、的な何かでした」
「でしたね」
「……なにか誤解しているようだが、ただの顔見知りの配達員だからな」
そんなでるたの様子に、コモリはジト目になり、こんこんは眼鏡の奥の目を細め
「顔見知りですってまぁいやらしい。こんこん先輩というものがありながら……」
「でるた先輩は本当にアレな人ですね。コモリさんというものがありながら……」
同時に言った。
そうして一瞬のち「えっ」という表情で顔を見合わせる二人。
二人はそのままでるたに視線をうつし、どこか気まずいような時間が数秒流れる。
「ふ、二人とも寝ぼけたこと言ってるなよ! さ、さて、今回はこっちの本から読み始めるかな!」
ダンボールの箱を開封している途中だったでるたは、二人に見つめられて動きを止めきょとんとした顔をしていたが、すぐに取り繕うとどこか怒ったような表情になって、本を読み始めるのだった。
その顔が、涼しくなってきた部屋の温度に反するように、ちょっと赤くなっていたことに、コモリとこんこんは、まだ、気がつかなかいようである。
そして、三人は読書に戻る。
時間はすっかり夜になり、どこからか夕飯の美味しそうな匂いも漂ってくる。
そんな中、時折軽口をたたき合いながらも、三人は黙々と本を読み続けていく。
やがて、かわす言葉も尽きたのか、部屋の中にはまたページをめくる音だけが響き始めた。
§
それが、彼らの日常の風景。
特別なことは何も起こらない、けれどかけがえの無い日々の一コマ。
その積み重ねのひとつひとつは、きっと彼らの未来へと繋がっている。
夜風に揺られた風鈴が、ちりんと、涼しげな音をたてた。