あなたのための物語 / 長谷敏司

あなたのための物語 (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)

あなたのための物語 (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)

書き手が何か得体の知れないものに本気でぶつかっていくような小説には、一種異様な迫力が宿るものだと思うのですが、これはまさにそんな作品。「死」、そして「人間」というものに身を投げ出すようにぶつかっていく、その迫力に思わず息を呑みました。
脳内の疑似神経を記述し、経験や感情を直接的に言語として扱えるITP。それを開発した女性研究者サマンサ・ウォーカーがこの物語の主人公。そして、彼女が治療方法の無い不治の病に侵され、余命が半年であることが判明して物語は動き始めます。
肉体を苛む苦痛、人としての尊厳すら犯される病、そして迫りくる死への恐怖。成功者としてITPのこの先を描いていける立場から、唐突に落とされた全てを失う未来。その恐怖が、その怒りが、科学とは世界に抵抗するものだと捉えていた彼女を、死を乗り越えるためのITPの研究へと突き動かします。
怒り、足掻き、苦しみ、恐怖し、ITPの創造性を証明するために作られたITP人格の《wanna be》と彼女だけが残された研究室で、死に向かう己から逃げるようにITPの研究に取り組んで。禁忌を犯し、社会を失い、内へとこもっていくように死だけを捉え、自らの作り上げたITPに希望を見る。不安定な精神と、強烈なエゴを撒き散らす彼女の姿は、みっともなく浅ましく矛盾していて、それでも共感を覚えてしまって、その苛烈さに引きずりこまれるような感覚になりました。
脳の動きを、人間の心そのものを記述するITPの研究だから、感情を書き換え、人格を複製し、無から意識を生み出すこともできる。そこに人間の特権はなく、全てはテキストの集積に過ぎなくて。それでも、肉体というものから人はどうしようもなく逃れることはできず、死は今も昔も変わらずにそこにあり、そこから始まったのが人間で。
後任の研究者であるケイト、古くからの友人であるデニス、そして祈り続ける両親との関係。情報の連なりに、その人ための意味を与える《物語》。そして、人間ではなく道具であるITP人格の《wanna be》がサマンサに書き続けた《物語》。
様々なものを経てたどり着いた場所は悟りでもなんでもなく、解決できないものは解決できないままに、分かりやすい正しさはなく、それでもサマンサの歩んだ数ヶ月間は確かに存在する。そこにあるのは人間というものを問う濃密な記録。
そしてサマンサの物語はここで終わりを迎えるから、この先は多分読者自身が考えなくてはならないことなのでしょう。今はただ凄かったとしか言えませんが、この小説は、これから何度も振り返って、私の価値観や考え方にじわじわと影響を与える特別な作品になる気がします。傑作でした。