『ライトノベル』という商品について、それからライトノベルと批評について

先日の飲み会で何週してもまた巡ってくる「ライトノベルって何?」な話をして、例によって話はまとまらずに結論は出なかったりしていたのですが、せっかくの機会なので私が個人的に捉えているライトノベルってこんなものだと思う、ということについて書いてみたいなと。


私としては、「ライトノベル」というのは「SF」とか「ミステリ」みたいな物語のジャンルを示すものではなくて、商品形態の一種に付けられた呼び名だと思っています。ジャンルはジャンルでも、「恋愛小説」とかではなく「少年マンガ」とか、そういうものに近い概念。
どんな商品かと言うと、中高生くらいの、どちらかというと男の子を主なターゲットにした小説。特性としては、書き下ろし新作でも文庫でお手頃価格で、単発よりもシリーズものが多くて、表紙はアニメ的な絵の女の子のイラストが多くて、カラー口絵や挿絵も多いもの。物語はメインの読者層に合わせて少年少女が主人公で、ファンタジーやラブコメ、バトルものが多くて、販路的には一般小説ではなくマンガ寄り、宣伝やイベントもマンガやアニメと近しいところで行う。ざっくりするとそんな感じの4Pで創られている商品パッケージのことを「ライトノベル」と呼んでいるのかなと思っています。
だから、キャラクターの魅力に依って書かれている小説がライトノベル、とか表紙がアニメ絵なイラストだったらライトノベルとか、そういう言い方にはちょっと違和感があったりします。その内容や装丁はライトノベルというパッケージの一つの要素ではあるけれど、あくまでもそれは要素であってライトノベルという概念とイコールで結ばれるものではないような気がするのです。そういうものは、ラノベ的だとかラノベっぽいとか呼ぶべきものなのかなと。
じゃあ、何を持って「ライトノベル」なのかと考えたときに、もちろん0/1で言えるようなものではないのですが、上であげたような特性で敢えて区切りをつけるならば、レーベルという概念が一番それに近しいものなのかと思います。レーベルというものは、一定のターゲット層を見て展開されているものだと思いますし、作品内容や販売形態といったところもある程度共通になっているはずなので。
そんな訳で、個人的には電撃や富士見ファンタジア、角川スニーカーから発売されている文庫の小説=ライトノベルであって、それ以外のレーベル、例えば講談社ノベルスやハヤカワJAからラノベ的な作品が生まれたとしても、それはラノベっぽい作品ではあっても、ライトノベルとは呼ばないのではないかと、そんなふうに考えています。


というのが、私の個人的な考えです。人によって、当然色々な捉え方があるかとは思いますが、こういうふうに捉えている人もいるんだということで。


そして、先だっての飲み会の時にもう一つ話題になっていた、ライトノベルと批評の話についても、個人的な考えを、それを踏まえてちょっと書いてみたいなと思います。ここで取り上げる批評については、ライトノベルというパッケージの要素としての物語に対しての批評で、とりあえず私としては、その意味でライトノベルに批評は必要ないかなと思っています。
まず私個人としては、批評というものについて、今時点で既にある物に対して個人のバックボーンや、歴史的背景、学問的なベースに基づいて、情報の整理や定義を行った上で何らかの分析をしたり、それに対して意見表明をしたりするものなのかなと捉えています。
だから、ある文化や物語ジャンルの今を捉えて、それを踏まえてより深く斬り込んでいったり、それを踏まえてその先を見せるような時に批評というものは必要だし、批評がなくても批評的な性格を持った作品が生まれてくる必要があるのかなと思います。批評は、同じことを繰り返すのではなく、過去を踏まえて次へ向かうための道標になるためのものであり、その場所をより深く掘っていくために必要な手続きだと思うのです。
ただ、批評というものはあくまでも今を捉え、今を深めるためのもので、全く別の性質を持った何かを生み出すためのものではないと思います。イメージ的にはあくまでも線を伸ばしていく感じで、全く別の線を引き始めるものではないような感じ。
それで、ライトノベルという商品形態の話に戻るのですが、これはその性質上、何かをどんどん深めて行くことが望まれたものでないと思っています。3年〜6年で入れ替わっていく、常に新しい少年少女たちのために届ける商品の要素としての物語に、過去を踏まえた上で掘り下げをすることは不必要とはいいませんが、そぐわないものだと思うからです。
ライトノベル的な物語に大事なものは、「王道」と「今っぽさ」ではないかと、私は感じています。常に変わっていく読者に、いつの時代も変わらない王道の魅力、それは例えばベタなボーイ・ミーツ・ガールだったりラブコメだったりといったもの、を届けること。そしてその王道を、今の時代の空気を吸い込み、今を生きる彼ら彼女らの心に届くような作品として形にすること。それが、それぞれの時代においてライトノベル的な物語の特徴になっていくものなのかと思います。そしてそういった物語を生み出すために批評が必要なものかというと、それは必要なものではないと思うのです。
過去を前提として次に進むことは、一定のファン層と共に成熟していくジャンルにはフィットしていても、常に読者が入れ替わっていくべき世界では、逆に知っていなければいけない知識を増やして、入れ替わりのハードルを上げていくだけと思います。また、それは、今を掘り下げて次につなげることはできても、新しい時代の空気を見つけ出すことはできないのではないかとも思います。
むしろ必要なのは、今の空気をいっぱいに吸い込んで育ってきた新しい作家の作品を見つけ出す新人賞であり、それを発表できる場であると思います。そして、そこから生まれてきた、普遍性と今の感性を併せ持った作品が、それぞれの時代の読者たちにとって、大切で特別な自分だけの一冊になっていくのだと思うのです。
もちろん、そうやって新陳代謝をしていくライトノベルの世界から、鮮やかに今の空気を切り取った、特異な才能を持った作家が生まれてくることはあると思いますし、実際そういう今まで形をとっていなかった「今っぽさ」を求めて私はライトノベルを読んでいるところがあります。
そして、そういう人たちのためには、そのテーマをより掘り下げていくための場や、そのテーマに対する批評と対話をするための場が用意されるべきだし、一読者としてそういうものをもっともっと読みたいと思います。けれど、その場は、ライトノベルという商品においてではないとも思うのです。そこは既に、次の世代の少年少女のための場であるべきです。
だから、今までもそういった作家は「越境」をしてきたのだと思いますし、個人的にはそういった役割をはたすための場として、メディアワークス文庫のような新しい形態のレーベルに期待をしたいなと思っているところでもあります。
もし、ライトノベルという商品のたどってきた過去から現在を俯瞰して、そこに映しだされる文化的背景をあぶり出したり、一つの流れとしてまとめ直そうとするならば、あるいはそれぞれ時代の少年少女たちが持っていた空気を分析し、今の世の中を、そして未来への予測を語ろうとするならば、批評はきっと有用なものだと思いますし、それはそれでとても意味のあることだと思います。
でも、ライトノベルという商品にとってそれは必要なものではないと思うし、ライトノベルを先に進ませるものはもっと別の、自然発生的な推進力なのではないかと、私は思います。


まとまりのない文章ではありますが、話ながらそんな感じのことをモヤモヤと考えていたので、せっかくの機会に一気に書いてみました。